「カノン、また喧嘩して来たのね」
「………」
ふいと横を向いて、無言で手当ての続きを促す。
悪事ばかり好んできた自分が変えられそうになるのを、いつしか感じていた。
大切なひと
彼女と出会う前、喧嘩と酒は止められなかった。
一時期は女にも凝ったが、すぐに飽きた。
「お酒ばっかり飲んでると、早く病気になっちゃうんだからね。はい、コーヒー炒れたから飲んで」
彼女の言うことは、大体自分を案じての事だ。
彼女―は、日本から語学留学でやってきたとかで、主のアテナと同じ言語圏出身。
しかし、ギリシア語も堪能だった。
カノンはアテナに「仲の良い友人なの。皆よろしくね」と聖闘士全員の前で紹介された彼女を見て、
恥ずかしながら、一目ぼれしてしまった。
取り立てて、美女と言うわけではないのだが、荒んだ自分の心を癒してくれるような何かを彼女は持っていた。
カノンは兄のサガと共に住んでいたけれど、次期教皇候補として
教皇の補佐を務めるサガは月のほとんどを仕事に費やし家に戻ってこなかった。
鬼の居ぬ間の命の洗濯と言うべきか、清く生きている兄に反発するかのように、カノンは喧嘩を売ったり買ったり、酒に溺れてはまた喧嘩し、
と、悪事を重ねた。
「全く…顔かたちは同じでもお前は私と違う人種のようだな。」
サガに苦笑交じりで言われて、かちんと来た。
と出会ったのはそんな折。
は、喧嘩して時に傷ついて帰ってくる自分をいつも案じた。
「カノン、今日はお腹を殴られたのね。気持ち悪くなってくるといけないから、今日は何も食べちゃダメ。あ、お酒なんて絶対だめだからね」
そう言って、スニオン服の上から自分の腹を優しく撫でてくれた。
酒を控えるようになり、夜の外出が減ったのはそのすぐ後。
まるで世話女房のようだな、は。カノンは変わっていく自分に戸惑っていた。
サガの真似をしているつもりは毛頭ない。
ただ、の言うことをどうしても聞いてしまう自分がいた。
「俺はなぜ、あいつの言うことばかり聞いてしまうのだ…」
と交わす会話は、いつも自分が聞き役。
決して飽きない、安らぐ時間。
今まで遊びで付き合ってきた女たちとは全く違う、に自分が強く惹かれていることに気づくのには、時間はかからなかった。
顔だけではない、気立てのよさや面倒見の良さ、すべてに、だ。
「…」
彼女の名前を呟く。家の中でぼーっと、の事を考えるだけで、胸が苦しくなる。
この苦しさをおさめるためには、やはりに自分の気持ちを伝えるしかない、カノンはその結論に至った。
カノンが住む近辺の治安は、決して良くなかった。
が一人で歩けるような場所ではない、と思っていた。
そのが、柄の悪い連中に絡まれて困惑しているのを、カノンは偶然見つけた。
男たちは何事か叫んで、の腕を掴み連れ去ろうとしているようだった。
カノンの頭に血が上った。
「貴様ら…そこで何をしている!」
カノンは拳を構えた。男たちはまた何事か叫ぶと、カノンに向かってきた。
多勢に無勢では分が悪いことは明らか。正統な戦い以外で技を使うのもためらわれた。
しかし、を危ない目にあわすわけにはいかなかった。
「カノン!」
が悲鳴に似た声を上げる。
カノンは凶器すら使ってきた男たちを、一人残らず地に沈めた。…
「カノン…大丈夫?」
「俺はいい。それよりお前、何故こんな時間に一人で出歩いたりしたのだ」
は俯くと、そっと手荷物の中から何かを取り出した。
カノンは、首をかしげた。「それは…」
「沙織ちゃんに貰って来たの。…カノン、お腹痛そうにしてたから、痛み止め。届けたくて…」
カノンはそれを聞くと、を無言で抱きしめた。
「カノン…」
「心配をかけて、すまなかったな」
自分がたまたま通りがかったからよかったものを、カノンはじわりと目元が熱くなるのを感じた。
大切な人を、傷つけたくない。
生まれて初めて抱いた気持ちを、大事にしよう。カノンはそう思った。
おわり
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