それはある夏の出来事。
大学一年生のは、恋人のカノンと夏休みの予定について話し合っていた。
「。…テストが終わったのだろう。俺も休暇が取れた。好きなところに連れて行ってやる」
「ほんと?」
目を輝かせるに、カノンはふ、と笑う。
「俺は嘘は言わん。どこがいい?」
は少しの間押し黙った後、カノンを見上げるようにして言った。
「私、海行きたいな!一度でいいからカノンと行ってみたかったの」
「………海、か」
カノンは僅かに眉を上げたが、ふいと顔を背けて、言った。
「…海は苦手なんだ」
「え…?」
「まあ、いい。お前となら行ってもいいぞ」
海と思い出
かつて、兄のサガにスニオン岬の岩牢に幽閉された過去の記憶が甦ったのかそうでないのか。
兄さん…この期に及んで俺を苦しめるか…
に格好悪いところは見せたくないので、カノンは必死に平静を装う。
夏の日差しを受けて、暑さから来た汗とは別の、冷たい汗が首筋を伝う。
海水を飲んだ厭な塩味も、水の中でもがく苦しさも、すべて鮮明な記憶となって甦る。
「カノン!どうしたの?顔色悪いよ」
「…いや、なんでもないぞ。それより、楽しいのか?」
「うん!」
無邪気に水と戯れるを見つめていると、厭な記憶は薄れていくようだった。
はもう大学生にもなるのに、体型を見せるのを嫌がってビキニを着ない。
それは今一つ不満ではあったが(しかしながら、下の素肌の美しさ、スタイルの絶妙さをカノンはよく知っている)
自分は上半身裸に水着と言う、鍛え上げられた身体のラインを余すことなく見せつけ、を虜にする自信はあったので
悠々と海辺にいるのもとへと歩み寄った。
「…まったく…お前の考えることは俺には分からんな」
「え?」
の体をひょいっと持ち上げて、厚い胸板に抱き寄せる。
「カノン…」
「暫くこうしていろ。」
海に浮かぶと、カノンの蒼い髪がさっと水面に広がる。
腕の中で目を丸くするを、ふっと不敵な笑みを浮かべてカノンは抱きしめた。
「こうしていれば、海も悪くないものだな」
柔らかくて温かい、カノンからすればとても弱くて壊してしまいそうな危うげな存在。
だからこそ、こうして抱いて守っていたい。
「カノン…カノンの腕の中、あったかいよ」
「お前も俺にとっては温かい」
戦いに明け暮れ、或いは悪に染まりこの手を汚し続けた過去も、の純真無垢な魂が洗い流してくれるような、そんな気がした。
あの岩牢でアテナが自分を慰めてくれたように、今はが自分を癒してくれる。
「カノン、カノン」
夢見心地なところを、の声に遮られ、甘い気分から冷めたカノンははっとした。
「…どうした」
「ちょっと…沖に来すぎたみたいだよ」
「むっ…」
不覚、カノンは腕の中のを抱きしめながら言った。
「すまない、すぐに戻るぞ。背中に乗れ。しっかり捕まっていろ」
「うん」
柔らかい感触が背中に当たる。
頭の中に僅か、良からぬ考えが浮かんだが、それよりも今はを無事に陸に帰すことが先決だ。
泳ぎには自信があったが、奈何せん波が荒くなってきている。
「、決して離すんじゃないぞ」
「カノン…大丈夫?」
「あぁ」
カノンはまた首筋に冷や汗が流れるのを感じた。
俺は、いい。
丈夫だから。傷ついてもすぐに立ち直れるし、こんな海の真ん中からだろうと生還する自信はあった。
だが、―は。
少しだって苦しい思いをさせてなるものか、カノンはそんなことを思いながら、必死に泳いだ。
やがて、陸に着くと、を下ろし、カノンはほっと溜息をついた。
「カノンありがとう。ごめんね…」
「おい、何を謝ることがある、悪いのは俺だ。…注意が足りなかった」
悲しそうに自分を見つめるを、そんな顔をしてほしくなくてカノンは胸に抱きしめる。
「すっかり冷えてしまったな…」
「ううん、カノンがあったかいから、平気だよ」
が笑顔を見せたので、カノンの胸はふと温かくなった。
「、海以外にもいい場所はある。これからいくらでも連れて行ってやるぞ」
「ほんと?…楽しみだな」
カノンはまたをひょいと横に抱き上げると、「行くぞ」と笑った。
おわり
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